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2018年2月23日金曜日

お葬式

先月、ベンのお父さんのジョンが亡くなりました。
ジョンがガンと宣告されたのは、私たちがちょうど日本に帰っていた昨年の5月。ジョンの気遣いで、私たちがその知らせを受けたのは6月にロンドンに戻ってきてからのことでした。それからたった8ヶ月で逝ってしまいました。

日本に帰る前の4月にイースターでウェールズに帰省した際、ジョンにおいしいランチをご馳走になったのですが、その時「持病のヘルニアがまた発症したので近々病院に行かなくちゃ」という話をしていました。しかしそのヘルニアの治療で訪れた病院でガンが発覚し、しかもすでに手遅れという信じられないような話でした。というのも、ジョンは健康には気を使っていて、自宅にフィットネスルームを構えたり、年に一度はロンドンのハーレーストリート(一流の開業医によるプライベートの医院が並ぶいわゆる「名医街」)のドクターから健康診断を受けたりしていたし、パートナーのモーリーンとしょっちゅうあちこち旅行に出て歩き回っていて、ヘルシーライフを送っていたのです。もとは胃ガンだったようですが、発覚時には肝臓などに転移していたらしく、余命は「何年」じゃなくて「何ヶ月」の話だと言われたそうです。

でもジョンのすごいところは、ショックを受けながらも残りの人生を有意義に過ごそう(本人談)と、気持ちを切り替えて身辺整理を始めたことです。少し前から売却しようとしていたポルトガルの別荘をさっさと売り払って片付け、ビジネスや財産の整理をし、パートナーだったモーリーンと結婚し(遺産がらみの理由かと)、モーリーンが以前から欲しがっていたけれど、ジョンは「ヨボヨボになって、もうどこにも旅行に行けなくなったら飼う」と言っていた犬をモーリーンのために飼い始めるなど、今のうちにできることはすべてやっておくという感じでした。弱気になったりセンチメンタルになってしまったりしてもおかしくない状況のなか(私たちに見せないだけで、そういう時間を過ごしたこともあったかもしれませんが)、こんなふうに素早く行動に移すなんて、誰もができることではないと思います。

そんなわけで私たちもジョンの都合に合わせてできるだけウェールズに足を運ぶようにしていて(幸い私が会いに行った時はいつも調子がよく、普通にみんなで外でランチしたりしました)、特にベンは、ジョンが数週間に一度、延命治療として受けていた抗がん剤治療日の前後は仕事を休んでウェールズまで行き(ベンの地元はロンドンからだとかなり遠くて、ドアtoドアで7時間ぐらいかかる)、病院に付き添ったりしていたのですが、最後の数ヶ月は急激に容態が悪化し、予定していた抗がん剤治療もキャンセルして自宅で療養していました。

しかも、サービス精神旺盛でいつも元気に喋りまくっているお父さんだっただけに、「会いに来られても何もできないので来ないでほしい」と言うのです。これにはみんな困惑し、どうしたものかと悩みました。ベンとポールの腹違いのお兄さんで、ウェールズに住んでいるティムも困惑していたようで、普段ベン&ポールとはあまり連絡を取っていなかったのですが、この時ばかりは頻繁にやりとりして、どうしたら一番いいのかみんなで模索していました。

ジョンと一緒にいるモーリーンがパソコンや携帯電話をほとんど使わない人で、コミュニケーションが取りづらく、状況が把握しづらいのも悩みのタネでした。それでも、外交的で行動派のティムは、近所に住んでいることもあり、折を見てちょくちょく足を運んでいたようなのですが、モーリーンに話して家に入ることができても、お父さんに見つかると「どうやって入ったんだコラ!来るなって言っただろ」と、冗談とも本気とも取れるような感じで言われていたようです。

ティムから聞いてちょっと可笑しかったのは、ベンとポールがティムよりも8〜10歳ほど下のせいか、ジョンはベンとポールのことを一緒くたにしてよく「ボーイズ」と呼んでいたらしく、「家に来るな」という件についても、ティムに「"ボーイズ" にもそう伝えるように」と言い、ティムが「わかった」と言うと、両手でサムズアップのポーズを取っていた、という話です。その光景がありありと目に浮かぶようで、哀しいんだけどついみんな笑ってしまうのでした。

12月の半ば、ジョンの容態がかなり悪いとのことで、私もベンと一緒に急遽ウェールズに出向いたのですが、この時もやはり会えずじまいでした(代わりにティムと会っていろいろ話せてよかったのですが)。ジョンはまるで「この病と一人で闘う」と固く決心したかのようでした。でも何とか私たちの気持ちだけでも伝えられるようにと、家までとりあえず行ってカードを置いて来たところ、後日ティムからメールがありました。

何やらジョンは、ほぼ寝たきり状態の具合の悪さだというのに、家の屋根の雨漏りが気になっていたらしく、修理を依頼するようにモーリーンに言っており、その修理工がティムの友人だったので、修理のたびにティムもくっついて様子を見に行っていたらしいのです。ティムのメールには「ベッドサイドに確かにカードが置いてあった!」とあり、その時のジョンとのやりとりを事細かに再現してくれていました。

カードは、たまたまベンの実家にあったものを使ったのですが(ベンの亡き母ジャンがかつて保管していたカードを集めた箱を、クリスが出してきてくれて、その中から選んだ)、ベンとポールの幼少期、まだジョンとジャンが結婚していた頃に住んでいたというフレッシュウォーター・イーストの風景が写っているものでした。

ティムが訪れた時、ジョンはかなり具合が悪かったらしいのですが、ティムが「いいカードだよね」と言うと、「ああ、とても」と言い、書いてあるメッセージを読み上げてほしいと頼んだそうです。ティムが読み上げると、ジョンは「ラブリー。ありがとうって言っといてくれ」と言い、続けて「それはフレッシュ・ウエストだな」と言うので、ティムが「フレッシュ・イーストだよ」と修正すると「ああ、そうだった」とにっこりし、「すてきじゃないか、なあ?」と言ったそうです。

その後ティムが、みんなお父さんのことをとても心配していると伝えると「わかってる、かなり具合が悪くて本当に残念だけど、もう誰にもどうにもできないんだ」と言い、しかもそんなに具合が悪いというのに、「ベンには(ロンドンから来てるのに会えずじまいで)電車賃を無駄にさせちゃったな」なんて言っていたそうなのです。でもティムが、「ベンも心配でできるだけ近くにいたいと思ったんだよ。みんなで会って話してたんだ」と伝えると、ティム、ベン、ポールの3人の息子が集まったことをとても喜んで、うれしそうに聞いていたんだとか。

と、これを書くためにそのメールを読み返したのですが、今読んでも泣いちゃいます、ほんと。

この時点ではもう、私たちは辛抱強く連絡を待つしかなく、しかもその連絡は悲しい連絡でしかないという状況で、何をしていてもいつも頭の片隅にモヤがかかっているような、晴れない気分が続いていました。数週間後にはクリスマスで、いつも通りウェールズに帰省はしましたが、通常は24日のイブにジョンの家を訪れ、クリスマスデーは実家でクリスとポールと過ごし、ボクシングデーにはジョンの親戚の家にみんなで集まるのが常だったものの、今回はもちろんそういうわけにはいかず、静かな数日間でした(でもクリスマスデーは相変わらずクリスが美味しいローストディナーの豪華コースを用意してくれて、和やかに過ごしました)。

ジョンへのクリスマス・プレゼントもどうしたらいいのかわからず、かといって何も用意せずというのもなあと思い、ベンに千羽鶴の飾りを作って届けることを提案してみたら、そのアイデアを気に入ったようだったので、ベンも折り方を覚えて、二人で鶴を折り始めました。まあ千羽となると折るのも時間がかかるし、ボリュームも出るので受け取る方も扱いに困るかも……それに何より気持ちが大事だろうということで、見た目に可愛らしい、邪魔にならない程度の小さい飾りを作ることにしました。それで大小の鶴を50羽ほど折り、それを束ねてオーナメントとして仕上げ、簡単に説明書きを添えて箱に入れ、クリスマスの前日、ジョンの家の前にカードと一緒に置いてきたのですが、その後、連絡はありませんでした。

そして年が明けて16日。ついに訃報を聞いてしまいました。それはなんと、ちょうどティムがまた屋根の修理工と一緒にジョン宅を訪れていた時だったそうです。そう聞くと、最期にティムが来るのを待っていたんじゃないかとも思えます。ここでまたすごいのは、ジョンは「自分が死んだ時に連絡を入れる人のリスト」まで作成しておいたらしく(!)、泣き崩れて何もできる状態ではなくなっていたモーリーンに代わり、ティムが葬儀屋とこのリストに掲載してある人たちに連絡したそうです。

ベンは、悲しいのはもちろんのことですが、その一方で、正直なところ少しほっとしたような感じでもありました。ジョンが痛みに苦しんでいることも知っていたし、心配しながら「いつ来るのかわからないけど、いつか確実に来る悲しい連絡」を待っているのは、やはり堪えます。長い期間ではなかったとはいえ、何がなんだかわからないまま逝ってしまったジャンの時に比べたら、多少心の準備をする時間が持てたのも大きかったと思います。

ジャンの時もそうでしたが、イギリスでは日本と違って、死後1週間から10日ぐらいの間にお葬式が行われます。今回も10日後でした。

ジャンの時は、私たちが、それこそ当時ポルトガルにいたジョンに会いに行った日、空港まで迎えに来てくれたジョンの車の中で突然、急死の連絡が入るという信じられない状況で、翌朝のフライトですぐにとんぼ帰りしたものの、ウェールズに着いてからも、しばらく遺体と対面できませんでした。日本だったらまず病院に駆けつけて……と思いますが、そんな流れはありませんでした。そして数日後に、クリス、ベン、ポール、私という側近の家族だけで葬儀屋に足を運び、そこで棺の中に納まっていたジャンと対面したのですが、私以外はみな、顔を見ることはもちろん、遺体に近寄ることも辛く、ただその空間を共有するだけで精一杯という感じで、近寄ってじっと顔を見ている私の様子が逆に異様に見えたようでした。それまで考えたこともなかったけれど、この時初めて、死者を「見届ける」という行為は万国共通ではないんだなと気づきました。

そのさらに数日後に行われたお葬式の当日は、身内が集まった自宅に、葬儀屋から霊柩車で棺が届けられ、神父さんに祈りを捧げてもらった後、教会に移動して一般の参列者とともに葬儀という流れでした(ジャンはカウンセラーとして働いていたこともあり、患者さんをはじめ本当に多くの参列者が集まりました)。霊柩車から棺を下ろし、教会の中へ運ぶ時と、葬儀終了後にまた棺を霊柩車へ(または墓地が隣接していれば墓地へ)運ぶ時、一般的には遺族や親族の男性4人で肩にかつぐなどして運ぶのですが、ジャンの棺は木を編んだ籠のようなもので作られた特注の棺で、持ち手が横についていたので、私も運搬役の一人に名乗り出ました。棺はずっしりと重く、とても緊張したけれど、何かお手伝いしたかったので、やらせてもらえてよかったです。

そして棺は霊柩車で墓地へ移され、家族や親族、身近な人々に見守られるなか、所定の墓穴に棺が下ろされ、参列者が順次、箱に入った土を少し手に取って、それを地上から棺にかける儀式が行われました(日本のお葬式のお焼香のような感じで、参列者が一人ずつ順番に行います)。一輪の花や、一緒に埋めてほしい小物を捧げている人もいました。神父さんはこの間ずっと祈りを捧げています。実際にすべての土を戻して埋葬するのは後に葬儀屋さんが行うので、事実上、これで終了です。当日、棺の蓋は一度も開けられることはなく、顔を拝むこともありませんでした。ちなみにこちらでは遺影が飾られることもありません。

ジャンはバプテスト教会、ジョンはイングランド国教会と、教会は異なりますが、ジョンの時も流れはだいたい一緒でした。ただ、本葬の前夜に、教会で家族(妻のモーリーンおよび3人いるモーリーンの娘とその家族、そしてティムの家族と、ベン、ポール、私)だけが集まる告別式のような会が設けられ、棺もこの時点で葬儀屋から教会に運ばれてきました。しばらくジョンの姿を見ていなかったこともあり、頭ではわかっていても実感がわかない部分がありましたが、この棺が車に乗せられて運ばれてくるのを見た時、途端に胸が詰まりました。あの木の箱の中で眠っているのかと思ったら、突然すべてが現実味を帯びてくるような感覚でした。その後の式では、女性の牧師さんが祈りを捧げ、一人ひとりロウソクを灯して、みな棺のそばで、しばらくしめやかな時間を過ごしました。

翌日午後、親族や友人たちが教会に集まり、本葬が行われました。昨夜と同じ女性の牧師さんで、もう一人の修道士さんも女性でした。ジャンの時もそうでしたが、普段から教会に足を運んでいたので、牧師さんもジョンのことを知っていて、スピーチの時に思い出話をしたりするのがいいなあと思いました。

こちらのお葬式では、各参列者にパンフレット(進行表)が配られます(日本の結婚式で配られる進行表と似たようなものです)。賛美歌の歌詞などもそこに書いてあるので、私のように、馴染みがなくても歌詞を見てだいたいで歌うことができます。式の内容としては他に、代表者による聖書の一節の朗読や、いわゆる故人に捧げる弔辞、ユーロジー(スピーチ)があります。このユーロジーは通常、親族や友人の代表者数人によって行われ(ジャンの時は友人代表のほか、ジャンの弟のコリン、そしてベンも行いました)、内容もしっとりとしたものから、笑いを誘うもの、心温まるものまで、それこそ千差万別なのですが、ジョンは「自分の葬式のユーロジーは親友のディック・フランシス唯一人でよし。つまらんポエムのような類は一切不要」と言っていたそうで(ジョンはディラン・トーマスが好きだったし、ちょっとしたポエムなども好きだったらしいので、これを聞いた時みんな少し意外だったようです)、その遺言どおり、ディック一人が行いました。

ディックは、すいぶん前にこのブログでも一度触れたことがあるのですが、ベンの実家近くで牧場を経営している人で、アップトン・ファームというアイスクリームや冷凍食品のブランドも持っている牧場主兼実業家です。ジョンとは公私ともに気の合う友人だったようで、しかもベン&ポールと同年代の息子たちがいるので、ベンが小さい頃よくお互いの家を行き来していたんだとか。実はこのお葬式の2日前の夜、ディックとその妻のマギーが、私たちをディナーに招待してくれました。ベンも彼らの家を訪ねるのは子供の時以来だったようで、懐かしかったようです。お腹いっぱいご馳走をいただき、みんな思い出話に花を咲かせ、ユーロジーで話すネタを確認したりして、いい夜を過ごしたのでした。この日の最後にディックが「よし、みんなでジョンを和やかに見送ってやろう」と言ったのが印象的でした。

そんなディックのユーロジーには、ユーモアに満ちたジョンの面白い逸話がぎっしり詰まっていました(すごい速さでたくさん喋ったので、私にはついていけない箇所もありましたが笑)。何といっても印象的だったのは、パーティか何かでディックとジョンが初めて出会った際、当時、帆船で航海によく出ていたジョンに、未経験のディックが自分も興味があると言うと、じゃあ今度誘うよ、という話になったらしいのですが、その何日か後にいきなりジョンから電話がかかってきて「ハロー、ディック。この間会ったジョンだけど。今から航海に出るんだけど一緒に行かないか」と言われ、ええ?こんな突然に!? と思いながらも「行く」と返事して、その20分後には船の上にいた、そこからジョンとの長く続く友人関係が始まった、という話でした。

またジョンは、地元でナイトクラブや映画館、ビンゴホールなどを経営していたこともあって(ハガー家の祖先は実は映画産業にも関わっていて、ちょっとしたショービズの歴史があるのですが、その話はまた別の機会に)、そのクラブにちなんだ伝説的(?)逸話がいろいろあり(例えばキンクスにドタキャンされたとか、ビートルズも有名になるのがほんの少しだけ遅ければライブしていた予定だったとか)、なかでもウケるのが、ピンク・フロイド(!)がツアーで二度ほどやって来て、その当時ジョンが飼っていた犬をメンバーがとても気に入り、売ってくれないかと言ってきたという話でした。もちろん売らなかったらしいですけど(笑)。

ペンブロークの街でかつて営業していたハガーズ。
1階が映画館、2階がヴェニューだったそうです。

ディックのユーロジーを堪能し、牧師さんのスピーチやいくつかの儀式、賛美歌斉唱などを行って無事にお葬式を終えた後、教会の裏庭にある墓地に移動し、棺が墓穴に下ろされました。ジャンの時と同様、土葬でした。そしてやはり終始、棺が開けられることはありませんでした。

その後はみな近所のパブへ移動し、広い貸切ルームに用意された軽食をつまみながらの会食タイム(ジャンの時はケータリングサービスを利用して自宅で行いましたが、大抵の場合はパブで行われるようです)。教会には来なくても、この会食にだけ参加する人たちも結構いました。ジョンは兄弟姉妹が多いので、ベンとポールのいとこたちや、その家族など、私は初めて会うたくさんの人々が集っていました。

多くの人たちが「ジョンに最後に会えなかったのは残念だけど、『元気な自分の姿を覚えておいてもらいたいから会いに来ないでほしい』という彼の意思を尊重したかった」とか「存在感のある人だったから、とても実感がわかない」とか口々に言っていて、ただただ頷くばかりでした。ジョンの思い出写真が飾ってあるコーナーも設けられていて、若い頃のベンとポールと一緒に写っている写真などもあり、興味深く眺めました。

また、そこでモーリーンと、私たちがクリスマスに届けた鶴の折り紙のオーナメントの話になり、「あれ、二人ともとても気に入ったのよ」と言ってくれて、ああ、ちゃんとジョンに届いてたんだなあと思って、とてもうれしくなりました。

ちなみにお葬式の時の服装について、「英国では日本と違って黒だけとは限らない」などと書かれているブログなども見ますが、やはり基本は黒だと思います。ただ日本ほど細かい決まりはなく、黒だけどフォーマルではなく、カジュアルな感じの服装の人もいるし、アクセサリーなどの備品も比較的自由だと思います。モーリーンも割と目立つ感じの白いテーピングが入った黒のスカートをはいていたし、足元もブーツだったりしていました。暑い季節ならノースリーブのワンピースや、胸元が比較的大きく開いたドレスを着ている人もいたりします。男性は黒のスーツに白シャツ、黒のネクタイが基本で、ベンもまさにこのスタイルでしたが、バッグはいつも使っているカーキ色のリュックを持ってたし(笑)。

実際、黒ではなくてグレーっぽい色の服だったり、チェック柄のジャケットなどを着ている人も見ました。なかでも今回、日本人の私から見て一番「おお」と思った服装は、ジョンの妹(ベンのおばさんの一人)のダイナで、パープルのパンツに花模様の刺繍が入ったブラウンの帽子という姿でした。ユーロジーを読み上げたディックも、麻っぽい素材のダークグレーのピンストライプのジャケットだったと思います。ベンいわく「若い世代のほうが型通りのスーツで、退職して悠々自適な生活を送っている中高年のほうが少しリラックスした感じの服装をしてる」とのこと。言われてみると確かにそうかも。今回初めて会ったジョンの昔からのお友達という人たちは、みんな「なるほど」というぐらいジョンにどこか雰囲気の似た人たちで、面白かったです。やっぱり似た者同士が集まるんですかね。

余談ですが、こちらには香典のようなものは習慣としてありません。供花は故人に向けて贈りますが、日本のように背の高いものではなく、平たくアレンジされた巨大なブーケのようなもので、メッセージカードを添え、棺の上や周辺に飾られます。供花の代わりに、その代金をチャリティに寄付するという形で弔意を示す人も珍しくないようです。

また、これはあくまでも私の個人的な経験からくる感慨ですが、日本だと「最期を見取る」ことや「死に目に会う」ことはとても大切なことと考えられていて、お葬式でも会葬者が棺に横たわっている故人に白装束を着せるのを手伝ったり、故人の体に触れたりすることもありますが、こちらではもっと距離感があります。私は日本で育った日本人なので、やはりできることなら最期にきちんとお別れしたいと思うのですが、でも何をもって「きちんとお別れ」というのかは、正直よくわからない部分もあります。

以前デンマーク人の友達とこういった違いについて話した時も「自分たちは身近な人の死という事実に耐えられなくて、目を背けたいというのがあるんだと思う」と言っていたのが印象に残っているのですが、でも私も今はむしろ、遺された人たちにとってその方が悲しみや苦しみが少ないなら、それでいいのではないかと思うようになりました。事実は変えられないのだから、いくら目を背けようとしても完全に背けられるわけではなく、それなら自分の許容範囲で向き合えばいいのではないか。泣いているから悲しい、というような単純なことではないと思います。

棺に横たわるジャンを見て、クリスが「これはもう自分が知っているジャンではない」と呟いたのを覚えています。おそらくクリスは、ジャンは自分の心の中にいるということが言いたかったのではないかと思いますが、こんなふうに、見方や考え方、とらえ方は人それぞれかと思います。ジョンが「みんなに覚えておいてほしいのは自分の元気な姿。だから会いに来てくれるな」と言ったのも同じような理由ではないかと思うし、確かに今もこれからも思い出すのは、いくつになっても自分の人生を楽しんでいる元気なジョンの姿以外にありません。

少しはにかんだような表情を浮かべる若かりし頃のジョン。
ベンにとってはもう少し血気盛んな(?)お父さんの印象が強かったようで、
この写真を見て「こんな表情の頃があったんだなあ」なんて言っていたけど、
晩年もどこかにこんな面影を残していたように私には思えます。